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福島でサムライ体験

2018/11/26 更新

アレックス・ベネット

2018年8月、10か国からやって来た22人の剣道家のグループと共に、私は福島県に帰ってきた。6か月前に私がこの地を離れた時は一面雪景色でおおわれていたが、今回は30℃を超える暑さだ。蒸し暑くとも、見渡す限り生い茂る無数の青葉が東京のコンクリートジャングルを後にした解放感で心を満たしてくれる。

私のiPhoneには「熱中症になる恐れがあるので激しい運動は避けるように」という警告メッセージが何度も表示されたが、そんなことは気にしていられない。私たちはここに「武者修行」をしにやって来たのだから。武者修業とは、諸国を巡って武芸の修行をしていた数百年前の武士のように、剣の上達のために鍛錬するミッションである。そして我々の武者修行とは、福島の地方にあるいくつかの道場で、激しく剣を交えることである。

恐れを知らない我々剣士の一行は新白河駅に集まり、大内宿の小さな村行きのバスに乗った。数百年前、福島の山々に囲まれた古風なこの小集落は、会津藩の大名やその家来たちが、10日に及ぶ江戸へ参勤する際の最初の宿場として機能していた。しかしその後戊辰戦争(1868年)と身分制が廃止された明治時代の大混乱の中で、大内宿は次第に忘れられた存在となり、そこへ足を踏み入れるものは少なくなった。

そして現代化の波が完全に過ぎ去った頃、この150年の時を経て大内宿はいつのまにかかつての日本のサムライの生きた遺物へと生まれ変わった。藁ぶき屋根の家屋や伝統的な建築は、1980年代に突如貴重な歴史的建造物として脚光を浴びることなり、大内宿は後世に残すべき「有形文化財」に認定された。400年続く蕎麦屋ほど我々の福島への剣道巡礼の目的をよく反映し、我々を待ち受ける冒険にふさわしい場所はないだろう。

我々は最初の修行先である会津若松へと向かった。会津若松の武徳殿は1934年に鶴ヶ城の前に建てられた美しい道場である。この建物は大日本武徳会の全国道場組織の一つとして建てられたものである。1895年に設立された大日本武徳会は、第二次世界大戦後まで日本の古武道を管理していた。

私は前回福島を訪れた際に武徳殿で修業したことがある。腰の高さまで積もった雪をかき分けて武徳殿の入り口まで進むと、そこには極寒の道場で灼熱の戦いを繰り広げる剣士から登る白い湯気が見えたことを思い出した。汗でびっしょりの胴着に着替えた今の私には、あの時の寒さが恋しく感じられる。

武徳殿を使っている剣道クラブの名前は有名な若いサムライの部隊、白虎隊から名づけられたものである。明治維新の動乱に抵抗した彼らの最後の活躍は、この地方の伝説的逸話となっている。胴着に白虎の名札を付けた勇敢な子どもたちの中に、苗字がカタカナでかかれた少年を一人見つけた。外国と関係のある子どもは日本の道場では珍しいので、彼の名札はひときわ目立っていた。誰もがカタカナで書かれた名札を付けた我々一行を目にした時、恐らく彼は人生で初めて、剣道が国際的に知られていることに気付いたのではないだろうか。竹製の剣を手に持ってこの究極の日本の伝統芸術に挑めば、その対決を左右するのは人種でも信仰でもない。お面の金属製の物見の奥で、少年の目が眩しいほど輝いていた。

我々一行のうちの多くは海外の現代的な体育館で剣道を実践したことしかなく、本格的な道場で剣道をするのは初めてだったため、武徳殿は彼らにとって貴重な体験となった。

翌日、我々は日新館へと向かった。日新館は、若いサムライたちに武道と民間教育を教える会津藩の藩校として1803年に建てられたもので、当時の日本では最高レベルの学び舎として知られていた。日新館で学んだ優秀な生徒たちは、後に現代日本の政界や文化界のリーダー的存在として活躍した。また、日新館は白虎隊のサムライたちの学び舎でもあった。

日新館はもともと鶴ヶ城の目の前にあったが、戊辰戦争の際に消失してしまった。数奇な運命を経て、武徳殿から目と鼻の先の旧日新館跡地は現在剣道用品店へと姿を変えている。そして1987年には、そこから車で20分ほどの場所に、細部まで当時を再現した日新館が再建された。

我々は朝から日新館の道場で講習会を受けた。1時間の激しい練習でおびただしいほどの汗をかいた後、我々は猛烈な太陽からしばし免れて教室に入り、洗練された、そして非常に手の込んだ日本刀の磨き方の講習を受けた。ツカモト先生はたっぷりと時間をかけて、彼の持つ伝統技能の知識を我々に伝授してくれた。姿勢や、石の品質と粒度、刀の表面で刃を磨く時の共鳴音、刃の上を絶え間なく滑らせる時のテンポや角度など、数々の細かい要素に気を配りながら、艶のない灰色の表面から鏡のような光沢がよみがえるまで、彼は実に1日8時間もこの骨の折れる作業をしているのである。

我々のグループのうちの数人は刀磨きに挑戦させてもらった。「あなたなら毎日6か月間一生懸命練習したら、刀磨きの見習いと呼べる程度の基本が身に着くでしょう。」と、先生はオランダから来た我々の仲間に微笑みながらおっしゃったが、他の挑戦者たちはこのありがたいお褒めの言葉はいただけなかった…。

私はこの地方の歴史と、会津が誇る武士道精神の本質について短い講義をこの教室でさせてもらった。多数ある歴史的名所を訪れるだけでも価値はあるが、その背景にある物語を知れば、それらを訪れることは全く違う意味を持つことになる。様々な学問を学ぶ実物大の若い武士たちの蝋人形が並べられた教室や、どの国でも若者がやるような腕相撲を通して、武士道を支持する日新館の若者たちに自分との神秘的なつながりを感じてもらった。

このような体験をした我々は、次に飯森山の白虎隊の墓を訪れることにした。そこは、20人の白虎隊のサムライたちが戊辰戦争での最後の抵抗として切腹をした、非常に心が痛む場所である。豪華な鶴ヶ城の塔の中から、我々は1868年の運命的な戦いのスケールを感じ取ることが出来た。飯森山から鶴ヶ城を見た白虎隊は、城が炎上していると誤解し、絶望して自刃を決意した。現代の若者のように彼らがスマートフォンを持っていたなら、全ての希望が失われたわけではなかったことを彼らは知ることが出来たであろう。

かの有名な「ならぬことはならぬ」という会津藩の武士道精神に導かれた彼らの犠牲の影響力の大きさを本当に理解することは不可能であるが、それでも我々は彼らの悲劇的なヒロイズムにすっかり影響を受けた。白虎隊の青年たちが今そこにいるかのように感じたほどである。おそらくこの150年の間、忠誠心と義理の鑑として彼らに敬意を払いこの聖なる丘を登ってくる人々の流れを、いささか困惑しながら彼らは見続けてきたのであろう。ともあれ彼らは、幼い頃から教えられてきた武士道の信条に従って、「正しいこと」をしたに過ぎない。

温泉保養地として知られる福島の典型的な温泉地で過ごした夜、我々はその日に見たものを反芻した。筋肉痛を癒し、尾を引く深いもの思いを洗い流すには天然温泉につかるのが一番である。

リフレッシュして生気を取り戻した我々は、福島の滞在の最終日に二本松にある霞ヶ城を訪れた。そこは、丹羽氏のサムライと新政府軍が対立した戊辰戦争の戦闘が行われた跡地でもある。会津若松の白虎隊ほど有名ではないが、二本松の若いサムライたちは二本松少年隊として知られ、この地域の伝説的存在となっている。彼らもまた、霞ヶ城と家族を守るため熟練した精鋭部隊と戦い、自らの命を犠牲にすることとなった。

霞ヶ城は戊辰戦争で落城したため、現在残っているのは土台と頑健な石垣の城壁のみである。仙人のような雰囲気を放つ老人、サトウさんが精力的にそして厳かに我々を案内してくれた。かつて二本松の要塞であった険しい丘の上までの古い階段を軽々と駆け上がる彼の後を、我々はやっとの思いでついて行った。

サトウさんが70歳であると知った「鍛え上げた」剣道愛好家である我々は、山の上の新鮮な空気を吸い込んで、彼のタフなペースに不屈の精神でついて行くしかなかった。「素晴らしい眺めでしょう?」と彼が言った。「でも、春に来たらもっと素晴らしいですよ。桜が満開になる頃は、山が目もくらむような美しいピンク色に染まります。是非その頃にまた来てください。11月には有名な菊の展示もありますよ。」

その後、サトウさんは、二本松少年隊が祀られている禅寺、大隣寺へと連れて行ってくれた。 苔むした湿地に並べられた墓石と記念碑を目にした時に背後で響き始めた寺の鐘の音は、まさにその雰囲気にふさわしいものであった。

最後に我々は築90年の道場を訪れた。地元の剣士の名札には見覚えのある名前がいくつかあった。それらは明らかに二本松少年隊の家系に関係しているものであった。練習の前に我々を迎えてくれた先生がこの道場と、ドラムのように足の音を共鳴させるために床板の下に置かれた大きな壺がおいてあることについて説明してくれた。

彼曰く、彼はこの道場で60年以上剣道をしてきて、たったの一人もそこでけがをしたものはいないとのことである。「それはなぜかと言うと、この道場の目の前の小さな神社から、二本松少年隊が私たちを見守ってくれているからですよ。彼らは私たちの守り神です。」と彼は言った。

その後の練習は言うまでも非常に熱く、そして気分爽快なものであった。地元の人たちは彼らの中に今までに見たことのない外国人の剣士が突然流れ込んできたことを楽しんでくれているようだった。子どもたちは特に、学校で習った英語のフレーズをいくつか実践することが出来てとても喜んでいた。取り組みの後、先生は、剣道の教え「交剣知愛」(剣を交わすことで愛を知ること)を引き合いにしながら、我々がここへ来たことの意味の大切さをこの道場のメンバーに話した。

交剣知愛の概念は剣道を支える哲学であり、武道を学ぶことを通して、尊敬の念や共感の心を学ぶことである。戦いの場で見過ごされがちであるが、剣道の世界では、勝敗を競う対決であっても互いを尊重する表現としてマナーが重要視される。厳しい訓練の間はスキルに関係なく、同じ血と汗と涙を流すことを剣士は皆理解し、共有している。剣道家がスキルや立ち直る力、自分の能力への自信を育むにつれ、肉体的・身体的バリアは消えてなくなっていく。そしてこの経験が、他の人々の協力に感謝することを通して、剣道家の生活態度を謙虚にし、視野を広げることにつながるのである。それは一生懸命練習し、尊敬の念を学び取り、楽しみ、今あるものに感謝するということである。

我々はこの貴重なメッセージを胸に、福島での武士道精神の旅を締めくくり、新白河駅へと足を運んだ。我々の誰もが、実際に目の当たりにしなければ得られない日本とその歴史の本質を見抜く力を得て、この上ない感謝を感じていた。人は時に、目に見えないものを心で見ることがある。今回の福島でのサムライ体験は、古代ローマの軍司令官であり、哲学者であり皇帝であったマルクス・アウレリウスの言葉を思い出させた。「朝起きた時、生きているということのありがたさを思い出しなさい。それは息をすること、考えること、楽しむこと、愛することです。」