相馬野馬追は、東北・原ノ町で毎年7月最後の週末に行われる祭りです。馬にまつわる様々な行事が3日かけて開催され、日本の重要無形民俗文化財にも指定されています。この行事は千年以上の歴史があり、相馬氏の祖である平将門(903-940年、将門の幼名は小次郎)の軍事訓練に由来しているといわれています。相馬氏は、鎌倉時代(1185-1332年)から戊辰戦争(1868年)までの間、相馬中村城(別名陸奥中村城としても知られる)を中心に活躍してきました。中村城のほとんどは明治時代に取り壊されましたが城郭跡と門は現在も残っています。相馬氏の家紋は現在でも相馬のあちこちで見受けられますが、なかでも三大神社である相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社は行事に深く関係しており、これらの神社の神輿が相馬野馬追の祭で使用されています。
この祭りは武士の技術を見せるだけのものではなく、本来神道の祭りです。行事の会場へと続く通りには神道で神聖とされる縄が張られ、会場はこの縄で囲われます。サムライファンなら絶対見るべき日本の行事ですが、馬好き、歴史的衣装好き、野外時代劇好き、レース好きの人も楽しめる祭りです。
行事
土曜日
初日は、武士の衣装に身を包んだ人々や騎馬隊の様々な集団が三大神社にお参りします。これには、武士の装束を纏った人々が神社で祈願し、上官に宣誓するという正式な儀式も含まれています。これに続いて騎馬武者たちは雲雀ヶ原へ移動し、彼らの代表者たちが審査台に上がって、武士らしい大きな声で自己紹介をします。初日最後の行事は宵乗りと呼ばれる競馬で、陣羽織を纏った武士たちが馬に乗って(旗は持たない)競い、これが翌日の本祭りの先行行事とされています。
日曜日
本祭りの儀式は、装甲した武士たちが中村、太田、小高の3つの神社それぞれに集結し、この行事を見守り、参加者たちを会期中守ってくれる神輿を担いで祭場地へと向かいます。お行列と呼ばれる整然とした行進が、時折音楽やホラ貝の音を伴いながら約50分にわたって繰り広げられます。約450人の槍や火縄銃のようなものを手に持った騎馬武者が大通りを行進するその足並みは見事に揃っており、神道の装束を纏った人々の集団も馬に乗った神主に付き添われて行進します。とても長い時間に感じられるのは、前にも後ろにも目に入るのは長蛇の騎馬武者たちだからでしょう。
男性の騎馬武者たちの他に、競馬や神旗争奪戦などの行事に参加する女性も数名います。また、子どもたちも伝統的な装束に身を包んでお行列に参加します。おそらくこれは将来参加する世代の初期の訓練になっているのでしょう。集団のリーダーが戻ってきて行進の速度が遅すぎると叱責する場面も見られるので、ちょっとした緊張感もあります。これは、この行事が見せ物であると同時に、厳格な行事であること、そして武士の規律や感情を再現することに真剣に取り組んでいることの表われだと思われます。世が世なら、大名の面前での遅刻や失態は重大な事であったはずです。
日本にもう大名は存在しませんが、相馬幸胤が相馬氏の34代藩主とされています。相馬のお行列の伝統の通り、相馬氏藩主は背中に明るい赤色の絹の母衣(ほろ)を背負います。母衣とは、日本で中世の時代に騎馬武者が背中につけて矢を防ぐために身につけていたものです。母衣は当初、クジラの髭で作った軽い籠のようなものでしたが、その後より丈夫で軽い竹を使って絹の布で覆うことが一般的になりました。相馬氏の他の地位の人は様々な色の母衣を身につけます。
行進も細部へのこだわりも目を見張るものがあります。ほとんどの人はレプリカの鎧と刀を身につけますが、ごく少数ですが一部の人は古来の鎧を身につけます。また、私が見た騎馬武者は全員古来の鐙(あぶみ)を使っていました。彼らが使っているのは、馬に乗ったまま立ち上がって弓と矢を効果的に使えるように考えられた特別な鐙(あぶみ)です。このタイプの鐙は、11世紀から12世紀ごろに使われ始めましたが、恐らく少なくとも150年間作られないようになっていました。このような鐙の多くは、彫刻がふんだんに施されていたり、象眼細工の軟質金属であったり、漆塗りの蒔絵が付いていたりします。また、騎馬武者たちは全員、鞍と呼ばれる日本の伝統的な木製のサドルを使い、これもまた、漆塗りのデザインがたくさん施されていたり、家紋がついていたりします。
全ての騎馬武者たちは、古来の物ではないものの、いろんな用途に使える木製か竹製の鞭を手に持っています。鞭は、馬を叩くのに使いますが、その鞭には家紋などの模様がついた旗を括り付けており、合図を送るのにも使われ、また、神旗争奪戦では非常に重要な役割を果たします。そして最も重要なポイントは、伝統的な絹で作られたきらびやかな装束です。騎馬武者の場合は鎧を付けるのでこの装束の大部分が隠れてしまいますが、騎馬武者以外の参加者の多くもこの装束を身につけています。
この日の一連の行事は、武士の鎧(甲冑)を付け、大きな旗(上り旗)を手にした男たちが馬に乗って速さを競う、甲冑競馬で始まります。10レース程が行われますが、騎馬武者たちは落馬することもあり、悪天候の時はさらにハラハラさせられます。かなり危険で大怪我になることもあるので小心者には務まるものではありませんが、行事の間は有事の時のために救急車が現場に控えています。
甲冑競馬に続いて、もっと激しい神旗争奪戦が始まります。神旗争奪戦は、最初に3つの地元の神社(赤:中村神社、青:太田神社、黄色:小高神社)からそれぞれ持ち込まれた3つまたは4つの神旗が、迫撃砲のようなものから空中に放たれます。騎馬武者たちが入り乱れながら鞭を使い、ゆっくりと下りてくる旗をいち早く掴もうとします。迫撃砲から出る爆発音や、騎馬武者たちは馬から振り落とされそうになる姿を見ることで興奮感が高まります。武士を振り落として自由になった馬が、囲いの内側に入ることを許された人々の方へと荒々しく走って行くこともありますが、観覧者や他の騎馬武者たちや馬がけがをしないようにスタッフが体当たりで止めに向かいます。
月曜日
最終日に行われる野馬懸と呼ばれる行事 は、荒々しい馬追いとしても知られています。人を乗せていない野馬が放たれ、それを騎馬武者たちが道筋に沿って小高神社の囲いの中へ追い込みます。そしてそこで馬たちは神道の白装束を纏った数人の男たちに捕まえられます。馬たちは神道で申請とされる葦の縄を使って馬勒を付けられ、馬の守り神でもあり、小高神社で祀られている妙見菩薩に奉納されます。この奉納の儀式はこの行事の真のルーツであるとも言われています。
多くの人は平将門が最初のサムライであると考えています。これに対して相馬の現代の武士たちを「ラストサムライ」と呼べるのかもしれませんが、私は彼らが「ラスト」ではないと思っています。私は、相馬はサムライ魂を守り続け、これから先の世代にもサムライを生み続けると考えています。
備考:
南相馬市博物館南相馬市博物館はメインの祭場地である雲雀ヶ原から徒歩でアクセスできる場所にあり、地域の歴史に関する展示や、特別展示用のギャラリーを備えており、なかでも相馬野馬追とその歴史に関するギャラリーが見どころとなっています。ここでは、鎧をまとった実寸大の相馬武士3人が、下りてくる御神旗を争奪している姿を見ることが出来ます。博物館は祭場地から徒歩圏にあるので、暑さや雨しのぎの一休みにも使えます。
原ノ町駅
原ノ町駅の駅員は、相馬野馬追の期間中陣羽織を纏います。あmた、駅構内には相馬野馬追の展示が設置されます。無料で武士の鎧を着て写真撮影をすることもできるので、相馬武士の気分に浸ることもできますよ!頭につけるものは、兜か、騎馬隊がつけているような白鉢巻のいずれかから選ぶことが出来ます。
エチケット
全ての参加者が相馬武士の子孫ではない現在においても、伝統的な武士の価値観に厳格に則って行事は行われています。そのため、お行列の間に通りを横切ったり、騎馬武者に声をかけたりしないようにして下さい。また、カメラのフラシュなど、馬を驚かせるような行動は避けて下さい。
参加する前に
雲雀ヶ原での日曜の行事にはチケットが必要です(子供は無料)。チケットの販売は毎年6月頃から開始されて、日本中のコンビニエンスストアで前売り券800円、当日券1000円で購入できます。詳細は以下の相馬野馬追公式サイトをご覧ください。
http://soma-nomaoi.jp/en/top-page/
祭場地と観覧エリアにはほとんど日よけ・雨よけはありません。この行事は初夏に行われるので、暑くて湿気が多い場合があります。一日中屋外にいることになるので、帽子をかぶったり、たっぷり日焼け止めを塗ることをお勧めします。雨が降った場合でも芝生や砂利のエリアには屋根付きのシートはないので、ピクニック用のシートか座るための台(但し椅子の持ち込みは禁止)などを持っていくと良いでしょう。ピクニックをする場合は、リーズナブルな価格の食べ物や飲み物、土産品などが現地で販売されています。