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文武両道

2018/06/05 更新

日本語の「文武両道」を大まかに訳すと「学芸と武芸の両方に秀でる」という意味になります。文人であると同時に軍事戦術家または戦略家であるというこの概念は、武士たちが当初から支持してきたものでした。戦術・武芸に優れていると同時に技芸に長けていることで有名な武士の例はたくさんあります。この理想は福島の武士たちの間では根強いものでした。

武士道を探求するために私は80年代に日本にきました。しかし、文武両道のエトスに従った生活をおくりたくて、茶道の勉強を始めました。(実をいうと、現在では武芸よりも学芸のほうにより傾倒しています!)当初私を茶道に向かわせた武道の動作における実際の類似点のほかにも、茶の湯の哲学的理想は武士道のそれに似ているまたは、まったく同じでした。茶道の4つの原則は、調和、敬意、純粋さと静けさです。これらは、茶道を学ぶすべての人々が日々の生活の中にとり入れようと目指す理想です。また、茶道のために記されたそれらは、すべての職業に適用する方法が簡単に理解できるものです。新渡戸稲造の「武士道:日本の魂」から引用した「勇気は心の穏やかな平静さによって表される」という一文は、それが武士道にも関係していることを示しています。

現在、このフレーズは、心と体のバランスを推進するために広く用いられ、学業での良い成績と同様にスポーツでも優秀であることを確実にするために多くの高校でキャッチフレーズとして利用されています。現在の学校がその概念を利用し始めるずっと以前には、日新館でいつの日にか武士に成長する会津若松の少年たちに対して武士たちが教えていました。1803年に建てられた日新館は、武士の精神身体的理想を伝える学校として日本ですぐに有名になりました。残念なことに戊辰戦争(1868-1869)でその校舎は失われてしまいましたが、校舎は元の設計に忠実に再建されたため、そこを訪れる人々は、その学校のすばらしさの一部である江戸時代当時の様子を垣間見るだけでなく、実践練習を行うことも可能です。

現在、私は裏千家茶道教授者を務めており、我々、実際には茶道の三千家すべてが会津若松に特別なつながりをもっています。今回、会津若松を訪問し、撮影できることに私は非常に興奮しました。その地には強烈な武士の歴史があり、私の属する茶道の流派に直接関係があり、しかも私の師匠が福島出身であるのにも関わらず、私はこれまで福島を訪問したことはありませんでした。

福島には強烈な武士の歴史があるというのは、公正な評価とはいえません。この地域の長い歴史には、この地域を治め、戦い、死んでいったさまざまな武士一族の話がたくさん存在しています。その影響力は今日でも、勇ましい歴史を称え、守っていくためにどんな苦労も厭わない福島の人々によって感じられます。過去への誇りは、サムライスピリットを思い出すために開催される多くの祭りにおいても明らかです。

その2大祭りは、英語では会津若松のSamurai Festivalと呼ばれている、会津祭りと相馬の相馬野馬追です。会津祭りの目玉は、歴史的な会津藩の武将たちを紹介していくパレードです。相馬の祭りは千年の伝統があります。福島県西部の相馬は馬の産地として有名で、この祭りの2つのハイライトは、刀と封建時代の武士の鎧一式をまとった12名を主役にした1000メートル競馬と、鎧を身にまとった何百という馬上の騎手たちが旗を奪い合う乱闘としか表現できない競技です。興味深い余談として、我々はこの地で作られた茶道茶碗使うのですが、それらには疾走する馬のデザインが用いられています。

その他のサムライ文化に捧げられた祭りには、霊山神社例大祭、松明あかし、木幡の幡祭り、そして弓道をするもの(していたもの?)として興味をそそられる、飯野八幡宮と古殿八幡神社での流鏑馬(日本の伝統的な馬上から矢を射る芸)です。もっと小さな地域における他の祭りも数多く開催されているはずです。

お茶と武士のつながりは強く、武士からの支援がなければ、おそらく茶の文化は長年のうちに絶えてしまっただろうといわざるを得ません。松平家はその最たるものでした。その良い例が、武士と茶道家にまつわるある話です。

戦国時代(1467-1603)の終わりごろ、徳川家康(1543-1616)によってこの国に戦いのない時代がもたらされる前、千利休(1522-1591)という名の人物が茶の世界で有名になりました。今日知られているように、彼は茶道の祖として認められています。日本で天下統一に向けた動きを開始した大名の一人豊臣秀吉(1537-1598)の茶の師匠として、彼は特別な立場にありました。長期にわたる信頼関係にもかかわらず、憶測はあるものの、一般的には理由はわからないまま、利休は秀吉の不興をかい、切腹を命じられました。武士ではないのにもかかわらず、彼は名誉ある死の機会を与えられたのです。利休が切腹してまもなく、その家族は離散し、彼の息子少庵(1543-1614)には、利休の高弟、蒲生氏郷の庇護のもと会津若松に退避するよう手配されました。実際に彼は利休の七人の侍の弟子の1人でした(黒沢明の映画よりずっと以前の話です!)

※豊臣秀吉と千利休

会津若松に蟄居を強いられていた間(1591-1594)、少庵は茶室を鶴ヶ城内に作り、麟閣と命名しました。日本語から直訳すると茶室ですが、率直にいうと、お茶用の一軒家といったほうが良いかもしれません。そこには茶室が2部屋あり、広いほうが6畳、小さいほうが1畳分の共有スペースともいえる「相伴席」がある3.75畳の部屋で、また、小さな準備用の部屋もあります。少庵はその茶室を会津若松のために作り、そのデザインは当時人気のあった武家造りであったといわれています。城自体が1874年に失われてしまったことを考慮すると、1868年の戊辰戦争中に破壊をのがれるため移動されたことは幸いでした。城は1965年に再建され、元々麟閣があった場所が発見されました。そして1990年、その当初建設された場所に麟閣は再建され、今では福島県の重要文化財の1つに指定されています。もし機会があれば、「文武両道」を物理的に再現しているこの特別な場所をぜひ訪問してください。

※千少庵と麟閣

ところで、物語は終わっていません。蒲生氏郷と徳川家康の骨折りと粘り強さを通じて、秀吉はついに折れ、少庵は利休の理想を推進するために京都に戻り、千家存続が許されました。少庵を赦免し、京都に戻ることを許す、蒲生氏郷と徳川家康両名が署名した豊臣秀吉の召出状が表千家家元のもとに今も残っています。

※蒲生氏郷と徳川家康

福島滞在中、白河にある茶室松楽亭で私はお茶を点てましたが、少庵の茶室麟閣にも心から喜んで赴いたはずです。今回はその願いはかなわず、「ザ・ラスト・サムライ」の福島に再び戻ることを熟考する機会をもらいました。

※松楽亭

「もしもわが国が文明国となるために、身の毛のよだつ戦争の栄光に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。」 岡倉覚三「茶の本」

「その地名に島の文字が含まれますが島ではありません。しかし、福島県の形はオーストラリアに非常に似ています。これをうまく利用した宣伝文句「あの島より」(つまり「あの島の代わりに」と訳せる)とうたった数年前の巧妙な一連の宣伝を私は思い出します。福島を訪問すればすむのにわざわざ遠くまで出かける必要がどこにあるのでしょうと言いたいのです。福島県は年間を通して素晴らしい景色、伝統的な祭り、郷土伝統料理そしてたくさんの温泉地があることで日本では有名です。見どころ、展示品満載の博物館、ギャラリーがたくさんあります。春には大変人気のある桜のお花見、秋には紅葉そして夏にはフルーツ狩りと1年を通して体験できるさまざまなアクティビティがあります。冬にはスキー・スノーボードができる20以上のリゾートがオープンします。また、福島県の至る所にある足を運ぶことが可能な寺、神社、その他の史跡のすべてを紹介しようにもしきれません。時をさかのぼり、豊かな歴史を楽しみ、その静寂を実感してください。駆け出しのサムライの興味をひくアクティビティの1つは、刀鍛冶のイベントです!」