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福島の人々のサムライスピリッツ

2018/06/05 更新

福島は、日本の東北地方の最南端に位置する県です。東京から新幹線で1時間20分。福島は、日本の他の都道府県と同様、明治維新後に形成されたもので、旧陸奥国と旧岩代国の一部で構成されています。会津藩の本拠地、現在の会津若松、鶴ヶ城は、江戸からやって来る際に、陸奥国への入り口に位置していました。

会津は陸奥国の大部分を占め、そして江戸時代(1600-1868年)には非常に強力な藩でした。会津藩は優れた軍力と武士たちの闘志で有名でした。そういうこともあり、幕末期の混乱のなか、第9代会津藩主、松平容保は天皇を護るため京都守護職に就くよう将軍から要請を受けました。残念なことに、会津藩が天皇と将軍に対するゆるぎない忠誠心を表明していたにもかかわらず、明治維新時には最終的に朝敵とされてしまいました。当時の会津藩が示した誠意と忠誠心は、サムライスピリッツの頂点を極めたものと認識されています。その精神は今日も福島の人々の中に生き続けています。

日本刀は武士の象徴であり、会津の人々も大切にしてきました。 会津の鍛冶屋の刃は、その強度とシャープさで知られています。 しかし、これらの剣は単なる武器ではなく、伝統的な茶器のような偉大なスピリチュアルで機能的な芸術として認識されています。 日本刀の美しさの本質は、人の手によって作られているものの、自然の要素を反映していることが多いという事実から来ています。 日本の美しさと大きく共鳴し、鋼の結晶的な活動(落葉、漂流砂など)を記述するために使用されるロマンチックな自然現象に基づく用語に反映されます。 要するに、日本の刀は殺しの武器ではなく、スピリチュアルで自己防衛的な美しさの神聖な対象と見なされているのです。

エンドウ・ケンイチさん(84)は会津若松市中町に住む日本刀愛好家です。彼は高校時代から刀に関心を持っていました。エンドウさんは17世紀半ばの刀匠の手による刀を彼のコレクションの中から誇らしげに私に見せてくれました。「この刀は寛文時代(1661年〜)ごろの有名な会津刀鍛冶、三善長道の手によるものです。彼はまた、その刀の出来栄えが江戸(東京)の刀匠、虎鉄の作品に似ていただけでなく、その刀の復元力と切れ味によって、会津虎徹としても知られています。」地域の他の有名な刀鍛冶には、新撰組副長、土方歳三が所有していたといわれる刀をつくった第11代会津兼定そして、福島の有名な刀匠の末裔、現代の刀匠、塚本一貫斎起正がいます。

会津出身で日本刀愛好家、エンドウ・ケンイチさん

エンドウさんは会津若松で育ち、何世代にも渡って今日まで伝えられてきた「什の掟」(武士の子弟のための行動基準)を教えられました。「そうです、この掟は今日でも福島の若者たちに教えられています」とエンドウさんは言います。そこには主要7か条と閉めの掟があります。

* 年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
* 長者には御辞儀をしなければなりませぬ
* 虚言を言ふ事はなりませぬ
* 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
* 弱い者をいぢめてはなりませぬ
* 戸外で物を食べてはなりませぬ
* 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

8番目の閉めの掟は、「ダメなものはダメ」という意味になりますが、上記の7か条は確実に守らなければならないことをその言葉が補足していると福島では広く知られている、とエンドウさんは説明しています。

これらの言葉の影響と力は、1868年の白虎隊の行動でも明らかです。白虎隊は、予備兵部隊として形成された十代の藩士たちからなる部隊でした。戸ノ口原の戦いでは、十六歳から十七歳の白虎隊隊士20名が、藩主の城が火に包まれ、戦いに負けたと誤解し、会津若松の飯盛山で切腹しました。彼らを称え、毎年踊りが奉納されます。これは「剣舞」と呼ばれ、代々会津高校の生徒たちのグループが踊ってきました。エンドウさんも学生時代にこの剣舞団の一員でした。彼は1946年からこの一団に参加し、仲間と一緒にいる13歳のときの自分の写真を私に見せてくれました。

剣舞団のなかの13歳のエンドウさん(1946)

ワタナベ・アキラさん(74)は、昔ながらの日本の漆工の3代目であり、また、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)会津支部の支部長です。渡辺さんは、会津塗として知られる福島独自の様式を専門にする漆工です。日本の漆工は通常「塗師(ぬし)」と呼ばれているとワタナベさんは説明します。しかし、会津若松と周辺地域では、塗り師と呼ばれています。本物の会津塗は、会津の職人たちが情報を漏らさず、その地域内でその技術を伝える代々の家系があることから、会津若松地区でのみ製造されているとワタナベさんは言います。しかし、彼はその様式に固執せず、あらゆる種類の昔ながらの日本の漆器様式を手掛けることができます。また、剣鞘や鎧に漆を塗るだけでなく、あらゆる種類の伝統的な日本の品々にも漆を塗っています。ワタナベさんは、会津若松に刀職人がもういないことを嘆き、日本で残っている職人たちの間で、古い技法がそのうち途絶えてしまうのではないかと心配しています。「福島にはたった一人の刀工しかおらず、それは福島市郊外の溜井下に住む藤谷将平氏です」とワタナベさんは語りました。

昔ながらの日本の漆工4代目、ワタナベ・アキラさん

昔ながらの刀工不足の理由は明治維新と国民の帯刀を禁止した1876年の太政官布告の廃刀令にまでさかのぼると言います。それにより、刀および関連工芸品の需要が大きく減少しました。職人の多くはその技能を活かして他の工芸品製造に転じ、多くは隣の新潟県に移り住みました。

隣の郡山には、日本刀研磨専門家、ツカモト・ケンジさん(68)がいます。ツカモトさんの家系は、日本刀に関連することで知られています。彼の父親は刀工で、彼自身も有名な福島の刀工の末裔であるおじで、刀匠笠間一貫斉繁継に師事した一貫斎起正のもとで、刀づくりを学びました。ケンジ氏は、現代に作られた刀はそれほど人気がなく、刀工として生計を立てることが難しいなか、自身のもつ技能を使って便利屋のような仕事に就こうかと考えていたと言います。しかし、彼は本阿彌家の刀剣研師(そしてのちに人間国宝となる)永山光幹のもとに連れて行かれ、紹介され、彼に師事することにしました。

ケンジさんには、受賞歴もある刀剣の鞘製作者ヨシユキさん(33)と父親に師事し、今では受賞歴もある刀剣研師の次男ヒロユキさん(31)の2人の息子がいます。元々この仕事を始めたのは偶然からで、刀剣収集や修復がブームになる中で、生計を立てるのにもってこいの仕事に思えとケンジさんは言います。しかし、今はこうした貴重な芸術文化作品を後世に残す取り組みは、楽しみのためであり、そして最も重要なのはこの仕事が好きだからと言います。息子のヒロユキさんもそれに同意しつつ、刀を保存することだけでなく、保存に必要な無形の技能を保護し、引き継ぐことも重要だと指摘しています。

刀匠塚本一貫斎繁政

刀を研磨するツカモト・ユキヒロさん

これは伊勢神宮の20年に一度の遷宮とそこに納められる奉納品のためだとケンジさんは説明しました。「我々は通常、その仕事人生で3回、伊勢神宮に奉仕します。初めは師匠について学んでいるとき、次は通常キャリアのピークで、技能が成熟しているとき、そして最後に弟子たちに自分の知識を伝え、弟子たちも作品を納めるときです。」また、ケンジさんは会津若松には刀職人がいなくなってしまったことを嘆いていますが、一般的に福島では工芸品はしばらくの間は安心だと言います。

ポール・マーティンとツカモト・ケンジさん

大内宿は福島県下郷にある、昔ながらの茅葺き屋根の日本民家が多く残る、江戸時代の小さな宿場町です。この町は少なくとも300年の歴史があり、江戸時代以前から現在の状態が守られています。大内宿は文化庁によって重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。町は旧会津西街道沿いにあり、参勤交代制度が施行されている間は、江戸に向う武士の一行の宿場として広く利用されていました。参勤交代は大名またはその家族に1回につき最長2年間江戸屋敷での居住を強いる一種の人質制度でした。また、武士たちによる長い行列で江戸と地元を往来する大名の旅路を護衛することも、参勤交代の必要条件でした。

大内宿(下郷)

そこには、小さな店や古くからの民宿があります。民宿本家扇屋の女将さんは、若くして結婚し、夫の家業を手伝うことになってからずっと扇屋で働いています。この民宿(部分的に昔ながらの倉庫、蔵に改装されている)は300年前に建てられ、世界中からやってくる観光客が宿泊すると彼女は言います。「私は日本語しか話せませんが、コミュニケーションには何の問題もありません。ここに来る人は皆とてもフレンドリーで、意思疎通を図りたいという気持ちが言語の壁をのりこえます」と彼女は述べています。しかし、福島原発の問題が起きた当時は、観光業に依存する大内宿は危機に直面しました。女将さんは当時を振り返りこう言います。「次々にキャンセルの電話が鳴って、すべての予約がキャンセルされました。私は夜更けまで泣き続けましたが、後に日本のセレブたちが宿泊するようになって、今では観光業はこれまで以上に好調です。人生で、一番幸せです。」福島の人々の話になると、女将さんは、正義感が強く情が厚い、おそらく「什の掟」の影響でしょうと言いました。

民宿本家扇屋の女将さん

福島県内の各地にはそれぞれ地元の強い誇りがありますが、会津藩の影響は県全域に広がっています。会津藩士たちの武力への誇りと優れた能力は、地元住民の心に未だに古びることなく記憶されており、すでに150年も前に日本からサムライがいなくなったのにもかかわらず、今日でもそのサムライスピリッツは人々の気持ちと心のなかに依然として強く感じられるのです。勝ち目がまったくなくても、福島の人々は決してあきらめません。福島の伝統的なお土産、起きあがりこぼし人形は、福島の人々のサムライスピリッツを真に象徴しています。何度も何度も倒されても、いつもかならず起きあがるのです。

古くから伝わる人形、起きあがりこぼし