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会津が現代に残すもの

2018/06/05 更新

先日私は日本の東北地方にある福島県を旅行しました。訪問時は大雪でしたが、季節を問わず、福島は非常に美しい場所であることを確認することができました。高い山脈と広大な平地の組み合わせが息をのむほど素晴らしい景色をこの地にもたらします。ここには、現代的な街であっても昔ながらの日本がたくさん残されており、街から離れればすぐに、田舎のど真ん中にいる気分になれます。

私がこの旅で最初に訪問したのは、会津若松城としても知られる、鶴ヶ城です。こちらの見事な7階建ての城は近隣地域のどの建物よりも高く、近くの山々や丘からでもその姿をみとめることが可能です。蘆名直盛によって、最初の城が建てられた1384以来ずっとこの地に城は立ち続けています。これまでに城は数々の再建工事を受け、7階建ての城であった時期もあります。しかし、1611年に大きな地震によって損壊し、5階建ての城に再建されました。後の1868年の戊辰戦争では、1か月に及ぶ籠城で、官軍による激しい砲撃を受け、城は最終的に1874年に解体されました。現在の城は破壊された城の最後の様子をとらえた写真を参考に1965年に再建されたものです。この再建事業は会津若松の人々による寄付、支援に大きく依存したものでした。現在、城は資料館としても利用されており、2011年からは赤瓦葺を有する日本唯一の城となっています。

会津若松の鶴ヶ城

鶴ヶ城からそれほど離れていない場所に飯盛山があります。飯盛山には白虎隊と呼ばれる若い武士たちで構成された予備兵部隊にいた10代の隊士20名の記念碑と墓があります。戊辰戦争における戸ノ口原の戦いで、彼らは所属部隊からはぐれ、飯盛山に撤退することにしました。彼らは官軍をかわし、滝沢峠(狭く暗いトンネル)では首まで水につかりながら前に進むことで無事に飯盛山にたどり着きました。戦況を確認するために山の上の町が見渡せる場所に到着した時には町が多くの火と大量の煙に覆われていたため、藩主の城が火に包まれたと彼らは誤解しました。すべてが失われてしまったと思った彼らは、その場での切腹を決意しました。

白虎隊士の墓

その中の1人、わずか14歳の飯沼貞吉だけが生き残りました。彼はある武士の妻に発見され、助けられたのです。彼が生き残ったおかげで、20名の勇敢な若い武士たちの物語が明らかになったのです。毎年4月24日と9月24日は会津若松の地元名士による墓前祭と高校生たちによる剣舞と呼ばれる特別な奉納がその墓前で執り行われます。日本そして世界中から人々が白虎隊に敬意をはらっています。第9代にして最後の会津藩主、松平容保の短歌「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽じとぞ思う」が記された弔歌碑が近くにあります。その墓の近くには、白虎隊と戊辰戦争にまつわる品々を展示する小さな記念館、白虎隊記念館があります。

剣舞

新撰組記念館は会津若松の七日町にある小さな記念館です。こちらも戊辰戦争にまつわる遺品や品々、新撰組隊士たちに関する情報や写真が展示されています。新撰組は幕末期の混乱のなか幕府によって雇われた剣客たちの集まりで、日増しに危険になっていく京都を警備していました。同じころ、第9代会津藩主、松平容保が京都守護職に命じられ、この剣客たちの集団は容保の預かりとなりました。もともとこの集団は、最終的に新撰組と名乗るようになるまでに数回名称を変更してきました。新撰組という名前は、京都で再び彼らに職務が与えられたことにちなんで容保が与えたと言われています。この時をさかいに、彼らは真に団結し、新撰組隊士と会津藩の間に絆が生まれました。

新撰組記念館(会津若松市七日町

会津藩から新撰組に刀が贈られたという記録があります。また、新撰組副長、土方歳三は、有名な会津の刀鍛冶、11代会津兼定による刀を所有していたと言われています。土方歳三は戦いによる怪我を癒すために会津で過ごし、北海道での戦いに向いました。近藤勇が板橋(東京)において反逆罪で首をはねられた後、彼の首は証拠として京都に送られました。しかし、会津の者がひそかにその首と彼の刀を京都から持ち去り、会津若松の天寧寺に埋葬されたといわれています。現在は、戊辰戦争の戦死者の記念碑があり、近藤には別の墓石が捧げられています。もう一人の新撰組隊士、斉藤一は甲州勝沼の戦いの後で会津に向い、会津が敗れた後も同藩に残りました。

斎藤一、新撰組、三番隊組長

日新館は高い位の武士の子供たちのために1803年に開かれた会津藩の藩校でした。子供たちは10歳になるとこの藩校に通い、15歳で卒業しました。だいたい平均して1000から1300人の生徒がいたと言われており、その優れた教育水準で、日本中に広く知られていました。授業は朝の8時に始まり、子供たちは学業だけでなく、武士の作法について学び、武芸の稽古をしました。白虎隊の数名の隊士もこの藩校の卒業生です。残念ながら戊辰戦争によって元の建物は焼け落ちてしまいましたが、1987年にその建物は細部にわたって再建されました。

日新館(会津若松にある、侍のための藩校)

大内宿は下郷にある江戸時代の小さな宿場町です。この町は少なくとも300年の歴史があり、江戸(東京)へ向かう時または会津から新潟へ向かうときに会津西街道を進む旅人たちの宿駅として利用されていました。また、大名の家族が長い期間江戸の屋敷に住むことを余儀なくされた封建時代の参勤交代制度の際には、江戸へ向かう武士たちに広く利用されていました。当時は江戸にいる藩の一団は2年おきに他の一団に交代する決まりでした。

この古い倉庫、蔵が点在する茅葺き屋根の民家の町は江戸後期の状態でそのまま残されており、日本の国家遺産に相当する、国指定の重要伝統的建造物群保存地区となっています。そこには、小さな店や古くからの民宿があります。大内宿のメイン通り沿いの丘に、小さな趣のある神社、高倉神社があります。

大内宿(下郷)

相馬市そして相馬野馬追を経験せずに福島のサムライスピリッツについての感想を語ることはできません。相馬市は、大きな港がある福島北東部沿岸近くに位置しています。この地域は、鎌倉時代(1185-1332年)から戊辰戦争(1868年)までこの地を領し、相馬中村城(陸奥中村城としても知られる)を中心に活躍した相馬氏の地元でした。城の主要部分は明治時代に解体されましたが、その周辺の敷地、門、建築物は残されています。

相馬野馬追は千年以上の歴史を持つ年次祭で、今でも相馬家の家長が統括しています。この行事は国の重要無形民俗文化財に指定されています。武士と馬に関連した一連の行事は毎年7月の最終金曜日に始まります。祭礼の初日には、行事が安全に執り行われるよう祈るため相馬中村神社に集まった、武士の甲冑を身にまとい、白い鉢巻をしたたくさんの騎手たちが行進します。翌日(土曜日)、騎手たちは再び神社で集まり、行事で披露される神輿を受け取ります。彼らは、伝統的な武士の唄、「相馬流れ山」を、神輿を祭場地へ運ぶ前に歌います。ほら貝と太鼓で演奏される音楽が響くなか、武士の甲冑を身にまとった騎手そして伝統的な和装の他の人々の行進が神輿の後に続きます。

相馬野馬追

日曜日には、馬を使った主要行事が3つ執り行われます。1つ目は、甲冑競馬。これに続くのは、荒々しい神旗争奪戦で、大勢の騎乗のサムライたちが空中に放たれた神聖な旗を手に入れようと我先に向かいます。その後は、所属神社に神輿を戻すための帰りの行進が続きます。最後の行事は月曜日に相馬小高神社で行われる、野馬懸。こちらは野馬追としても知られています。騎手のいない野生馬が放たれ、馬にのった騎手たちの一団がその野生馬を追いかけ、捕まえます。祭礼全体がまるでタイムスリップしたような気分になる、非常に興奮する経験です。こちらは、サムライ好きとって、日本旅行で外せないイベントの一つです。

相馬野馬追

江戸時代のサムライスピリッツを感じたいなら、福島を訪問してください。過ぎし時代の雰囲気を体験し、今日も福島の人々の内にある武士の精神を感じることができる素晴らしい場所がたくさんあります。