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サムライスピリッツの再考(2)

2018/04/18 更新

抜刀隊と会津藩領の没収
旅先で私が驚いたのは、ガイドの方から話を聞くのは、少年隊と白虎隊についてばかりで、「抜刀隊」と戊辰戦争から10年後の彼らの功績を語る人は一人もいませんでした。もしこの抜刀隊の功績を知っていたなら、祖先に関する歴史的物語によって引き起こされた懸念はかなり払拭されたのではと私は確信します。

映画「ラストサムライ」のオープニングシーンを思い出してください。罪悪感にさいなまれるアメリカ南北戦争で退役したネイサン・オールグレン元大尉(演:トム・クルーズ)が政府の新しい徴兵軍の近代的な軍事戦術の指導者として日本に召喚されました。薩摩藩の伝説的な西郷隆盛をモデルにしたサムライで反乱軍の勝元に対する軍事行動を見守るために、オブザーバーとしてオールグレインは出向きます。かりだされた農民たちは、よく訓練されたサムライたちにズタズタにされ、パニックになります。オールグレインは足に力をいれ、馬から投げ出される前に素早く数名の敵を殺します。"白虎"の印で飾られた壊れた槍だけが残され、オールグレインは無我夢中で最後まで戦います。どう猛な白虎がオールグレインにオーバーラップして見え、勝元はそれが前兆であると確信しました。彼は部下たちにとどめの一撃を刺すことを止めさせ、オールグレインを捕虜にして、九州南部の奥深くにある彼の村に連れ帰ったのです。そして、物語が始まります。

この「白虎」は、恐れを知らない白虎隊を象徴しているのではないでしょうか?そのように映画の中では述べられてはいませんが、オールグレインが巻き込まれた争いは、新しい東軍に対して不満をもつかつての武士(1869年にこの階級制度は廃止)によって実行された1877年の反乱、西南の役がベースになっていました。西郷の反乱は、皮肉なことに、彼が10年前にその樹立を目指して戦った新政府に対する一連の蜂起の最後となりました。

この戦いこそが、会津戦士たちの驚異的な勇気を証明しています。抜刀隊は、会津出身のかつての武士だった者を含む新たに設立された政府警察部隊です。これらの優れた剣士たちは1877年3月、熊本県の田原坂の戦いで薩摩の反乱軍に対して激しい戦いのあとの勝利に貢献しました。運命のいたずらなのか、戊辰戦争で勤王派武士たちと戦った同じ会津の戦士たちが、 自分たちの公然の敵である西郷隆盛に対して戦いを挑む東軍の隊列にその時はいたのです。

西郷の反乱軍が銃器を装備していたにもかかわらず、抜刀隊の隊士たちは剣だけを手に前線に向かいました。抜刀隊が なぜ刀のみを使って戦ったのか、理由は完全に明らかにはされていません。その精鋭部隊に入った会津の人間たちによってそれが歓迎されたのだと私は想像します。おそらく、彼らは伝統にのっとり昔ながらの会津の武士道精神見せながら、近代政権の軍隊で彼らの誠意を証明する機会と見たのかもしれません。郵便報知新聞は、未来の総理大臣犬養毅によるこの争いの目撃談を発表しました。その中で、彼は戦士たちの強い信念を証明する会津の戦いの叫びを次のように説明しています。

「かつての会津藩士は身体的危険にさらされても、前進し、直ちに13人の反乱軍兵士を斬り倒した。彼が打たれたとき、彼は大声で“戊辰を忘れるな、戊辰を忘れるな!“と叫んだ。これは作り話のように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。」

その出来事は今では大部分が忘れられていますが、抜刀隊の勝利は当時のメディアによって褒め称えられ、会津の男性たちの勇敢さにも注目が寄せられました。この出来事は現代剣道を学ぶものとして、特に私の興味をひきました。こうした混乱の時代に関して非常に冷淡な学術的重要性という点では、取るに足らない話に今ではされていますが、田原坂の戦いは回顧的に見て、伝統的な武術復活の転機であることを証明していました。近代西洋式の軍事技術と訓練が好まれ、それらは見捨てられたのも同然でした。結局のところ、大砲を使った戦いで弓矢、剣と槍がどれほど役立つというのでしょうか?

旧薩摩藩士であり、新たに組織された国の警察組織の総監を務めた川路利良(1829-79)は、抜刀隊の功績を称賛しました。彼は、剣術や柔術(非武装の戦闘)などの伝統的な武術を1880年から警察訓練に導入することを命じ、それらはもはや時代遅れの遺物と見られることはなくなりました。その実用的価値は、近代の戦いの現場で確認されており、市民の平和を守るために国のパトロール警官を身体的、精神的に鍛える優れた手段を提供することを彼は主張しました。それは規律を教え込み、警察部隊のメンバーの自衛に必要な技能を提供しました。このように、田原坂の戦いは、武士道の伝統的価値観と武士の戦闘術を現代に伝える、橋渡し役を務めたのです。

筆と剣の調和
明らかに、会津の戦士たちは、職務において自分の命を犠牲にする覚悟をしている武士の模範を体現していました。その多くが明治政府を熱心に支持し、国に勤勉なまでに国に仕えました。興味深い解釈をしている会津人に関する数々の伝記の中で、山川健次郎という存在は、私が福島県を短期間訪問したときに何度もその遺産を目の当たりにした人物の一人でした。明治政府によって物理学の勉強のためイェール大学へ送り出され、彼はこの神聖な教育機関を卒業した初めての日本人学生になりました。日本に帰国した後、東京帝国大学に助手、通訳として採用され、1879年に日本人で初めて物理学の教授に就任しました。また、彼は1907年の九州工業大学の設立に協力し、東京帝国大学(1901-1905と1913-1920)、九州帝国大学(1911-1913)、京都帝国大学(1914-915)の総長を務めました。これらの機関は今でも日本の学術拠点の最高峰と言われています。

会津若松に再建された藩校、日新館を訪問すれば、彼の学問、教育における輝かしい経歴が驚くに値しないことがわかります。会津藩士の子弟は10歳になると、1803年に松平容頌公によって設立された日新館に入学しました。日々熱心に勉強していた科目には医学、天文学、文学と武術の両方、礼儀作法の手順、儒教の古典、 書道が含まれていました。日新館には古式泳法を教えるために利用されたていた日本初のプールがありました。容頌は、藩が繁栄するためには、さまざまな分野の専門知識を持ってその大義に専念できる有能な指導者が必要であることを認識していました。よく組織されたカリキュラムと先々を見据えた教育法により、日本全国にある300の類似した藩校の中で日新館が一番優れたものであると称賛されました。

興味深いことに、他の藩校の若い武士たちに与えられる教育の多くは、会津の精神から直接的または間接的に影響を受けていました。 しばしば見過ごされてしまうこの詳細を理解するために、江戸時代に武士の理想がどのように発展したかを知ることは重要です。日本が徳川家康の幕府の下で平和の時代に突入した時、武士たちは慣れない状況に置かれました。戦うべき戦争がなくなった時、武士たちは社会の頂点にいる自分たちの存在をどうやって正当化できたのでしょうか?数々の有名な学者たちが救済と武士のための新しい倫理規定を独自に策定しました。これらは現在では集合的に武士道と呼ばれています。

儒学者と軍事専門家によって広まった議論は、軍事政権の存続を正当化するためのものでした。例えば、高潔な統治者は軍事力を使って平和を守る能力を持っており、「慈悲深い軍事政権」はこの国の福利に不可欠でした。そのような理由づけがすぐに受け入れられ、幕府の正式な決議を確固たるものにすることに一役かったのです。一般の武士は、本質的には、その存在意義を追及する非戦闘役人となりました。最終的に、職務に対する規律と献身が、個人的な栄誉を育み、維持するための新たな手段となりました。

最も有名な学者の1人は山鹿素行(1622-85)と呼ばれる人物でした。素行は会津出身で、平時における武士の役割を再定義するための彼の哲学的フレームワークは、都合よく、日本中の武士に対して青写真を提供しました。大道寺友山(1639-1730)といった彼に学んだ有名な生徒たちも、名誉の共通性に関して広く普及したやり方になった、行動の道徳的指針を後世の武士たちに提供しました。

山鹿素行は「武士は食べ物を育てることもなく、食べ物を食べ、道具を作ることなくそれを使い、売ることもせず利益を得る。これに対する正当な理由は何であろう?」と修辞学的に意見を述べました。彼の解決策は、武士の社会における機能は、君主に仕え、庶民が模倣するにふさわしい道徳の模範として行動するというものでした。言い換えれば、戦闘術を練習し、磨きをかけることによって高いレベルの戦闘準備を常に維持しながら、正しい道徳的態度と礼儀作法を厳守しながら生活することです。審美的で学術的な追及の習熟も、戦闘で勇敢に戦うことと同じように尊ばれました。素行の言葉を以下に紹介しましょう。

「武士の仕事は、生活のなかの自身の持ち場を省察すること、主君がいるならば、忠実に仕えること、友人との絆を深めること、そして自分の立場を配慮しつつ、何よりも職務に自分自身を捧げるなかにある」(士道)

This very same outlook is evident in neighbouring Nihonmatsu. Lord Niwa Takahiro issued a decree in 1749 warning the warriors of his domこれとまったく同じ見解が、隣の二本松でもはっきりと認められます。丹羽高寛公は1749年、藩士たちに対して自らの特権的地位を乱用しないように警告を布告しました。かつては藩の管理局前に設置された、興味を引く石の雨風にさらされた表面には、いまでもはっきりとこの適切な訓戒を読み取ることができます。

「お前のいただく俸禄は人民の汗であり脂(あぶら)である。下民は虐げやすいが上天をあざむくことはできない。」

素行の例に続いて、学者と武士は、どのような状況でも行動を起こす方法について簡潔で実践的な助言を含む指導書を出版しました。朝早く床から出る、節度ある飲食、礼儀、教育、訓練そしてふさわしい振る舞いが新しい武士の理想として再定義されました。 たとえ文字通りの意味での死がかつてのようなものでなかったとしても、絶対的な自己犠牲をもって己の職務を果たすことが期待されるという主旨のために、その概念が美化されました。

武士道の教義
死ぬことになっても真の武士がどれだけ忠誠であるかを実証した有名な話が江戸時代にはいくつか存在していました。最も有名な例が、四十七士の討ち入り(赤穂事件)です。 1701年、江戸にある将軍の城に出向いた大名(浅野公)が剣を抜き、彼をばかにして、彼の名誉を傷つけようとした役人を襲いました。浅野公は、この深刻な規範違反に対して、切腹を命じられました。山鹿素行派の思想の信奉者であった浅野公の忠実な家臣たちは、彼らの主人の名において、「敵対者」(吉良公)を成功裏に暗殺することで終わらせる血の復讐を計画し、実行しました。

このことで彼らは切腹を命じられることになりました。彼らの行為の妥当性は、各方面から賞賛と批評を生み出しました。ある者は、許可のない暴力を認めない幕府の命令に違反した許しがたい犯罪行為であるといい、ある者は2年間計画を温めるのではなく、ただちに実行するべきであったと非難しました。しかし、大半の人々、武士と庶民は挫けない忠誠心について彼らを賞賛しました。このような理由から、現代の日本人にも彼らは畏敬されており、彼らの伝説は演劇、映画、本で、忠実であることの模範として、語り継がれています。>

会津日新館の若い武士は、学問の課題に加えて、武士の道の模範的な追随者となるように厳格に教えこまれました。会津武士道の興味深い特徴は、代々の藩主によって発効された明確な戒律です。すべての会津藩士が自分の足で立てるようになった瞬間から学び身につけた基本的な原則は次のとおりです。

• 年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
• 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
• 虚言を言ふ事はなりませぬ
• 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
• 弱い者をいぢめてはなりませぬ
• 戸外で物を食べてはなりませぬ
• 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

これらの格言のほとんどは、どの時代またはどの文化においても通用するでしょう。最後の項目、「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」には、眉をひそめることは確かですが、現代的感覚に反する女性蔑視の意味が込められていないことは確かです。会津藩士たちは礼儀作法維持にこだわる人たちで、異性と一緒にはしゃぐことは、紳士的な藩士として不適切な行為であり、女性を辱める行為と見なされました。会津武士道の重要な側面は、息子を教育し、夫の職務を支えることに関して女性が果たした役割でした。会津の女性たちは非常に禁欲的で、戊辰戦争中に街を守るために恐れ知らずの戦闘員として活躍しました。戦闘で殺されなかった多くの人は、敵の手による敗北の屈辱を避けるために切腹しました。敵方の兵士たちが目にした光景に涙したという目撃談があります。

しかし、何よりも、会津藩士の倫理観は単純でありながらも核心を突く格言、「ならぬことはならぬ」によって表されています。これは会津武士道の真髄であり、すべてがそこに集約されています。つまり、常に正しいことをしなければならないということです。それは、自分の立場に適した方法で行動したり、他の人に思いやりを見せたり、自分の信念を確固たるものにするように行動すべきだとするものです。迷いがあるのであれば、「してはならぬ」ということです。

私は会津若松のいたるところでこの言葉を目にしました。それは使い古された言葉のように見えるかもしれません。皮肉屋であれば、上からの不当な指示を執拗に遵守させるための単純なプロパガンダとして解釈するかもしれません。いずれにしても、私が理解しているメッセージは、「言われたことをやる」というものではありません。最も重要なポイントは、自分の価値観を信じることであり、常に心が正しいと言うことに従って行動することです。行間を読むと、誠実な心と不朽の誠意をもって生きなければ、その人生に何の価値があるのかを問いかけているのです。

福島県滞在の最後の夜、私はこの気質が普遍的な人間の知恵の本質的ではあるが簡単に見捨てられた核心部分であることをじっくりと振り返ることができました。会津若松武道館と呼ばれる1世紀前に建てられた剣道道場に入り、白虎剣士会という名にふさわしい地元の剣道部のメンバーと竹刀を交えることができました。道場の壁には、会津藩の武士道の格言が掲げられ、「ならぬことはならぬ」の覚書がありました。剣道で対決すると、対戦相手の性格や価値観は、彼らの視線、姿勢、態度そして竹刀の扱い方に投影されます。基本的な練習をしてから練習試合にはいり、対戦した十代の剣士の誠実さに私は感動しました。ポイントを獲得するためにフェイントやトリッキーな戦略に頼るものは誰もいません。私が対戦した相手それぞれその動きのなかで、「私はここにいます。これが私です。勝利と敗北で、私は最善を尽くします。私が求めるのは敬意だけです。私が敬意をもってあなたに対峙しているように」と私に語りかけます。

彼らのテクニックはまっすぐで純粋でした。 「ならぬことはならぬ」が剣先からあふれ出ていました。それは、明らかに彼らの剣道の中心であり、たくさんの世代を通して持ちこたえてきた姿勢でした。これらの若い剣士は有言実行、わずかに申し訳ない気持ちと少し恥ずかしい思いで道場を後にしたのは私でした。そして、私は福島を出発する際に涙を流しました。