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サムライスピリッツの再考(1)

2018/04/18 更新

初めての福島訪問
会津には、「会津の三泣き」という教訓があります。直訳すると「会津に来ると3回泣くことがある」という意味です。1回目は、その地を訪れることに苦慮した上、閉鎖的な人間関係から醸し出される人々の冷たさに、会津を旅する人が涙を流すこと。2回目は、人々が親切で思いやり深いことを知った時。3回目は、旅人がその地を去るときです。日本の東北地方最南端に位置する、福島県の主要都市のひとつ、会津には大きな山脈が3つあります。夏は一般的に暑く、冬は大雪に見舞われとても寒いのです。1回目の泣きは、少なくとも昔は会津にたどり着くためのつらい旅路を示唆していますが、今は、新幹線を使ったのち、素晴らしい田園地帯をローカル線で通り過ぎれば、2時間ほどの旅です。このように、1回目の泣きは、あまりにも簡単に会津にアクセスできる驚きに対するうれし泣きと今日では言うべきでしょうか。

そうは言いつつも、恥ずかしながら、私はこれまで福島を旅行したことがありませんでした。30年近く京都に住んでおり、私が北へ向かうほとんどの旅路の終点は、大都会、東京です。しかし、武士道文化に情熱を傾ける研究者として、この状況を打開する今が絶好の機会であると思いました。武士道研究の専門家をうたう者が、福島を特徴づけるストイックで無私の武士道を直接体験しないわけにはいきません。

その歴史に消えない印を残したのはその地域に存在した武士であることは確かですが、封建時代、日本にあったすべての藩と同様、武士は人口のわずか7%を占めていただけでした。封建社会で人口の多くを占めるグループは農民であり、土地の半分以上が米の生産に割り当てられている福島県では、主要な生業はいまだに農業です。福島は、トマト、桃、リンゴ、そして梨の収穫量が多いことでも有名です。また、観光地としては、磐梯朝日国立公園、立派なお城、言うまでもなく飯坂、土湯、岳、甲子といった数多くの温泉リゾートなど、非常にすばらしい場所が存在し、もう一つの重要産業となっています。

福島の総面積は13,782平方キロメートル(5,321平方マイル)で、日本で3番目に大きな県です。 人口200万人ほどの福島県は、日本の典型的な時間に追われるライフスタイルから簡単に脱出し、自然の中で一人になる、山々に囲まれた静かな田舎町でゆっくりと一息つくには、十分な広さです。また、賑やかな一面に触れたい時には、福島市や会津若松市、二本松市、いわき市、郡山市、須賀川市といった活気がある街もあり、訪問するのにぴったりでしょう。私が初めて訪れた福島県は、二本松と会津若松でした。もっと他にもたくさんの観光地があるでしょうが、日本でこれらの場所ほど武士道の痕跡を目の当たりにできるところはありません。

二本松少年隊
二本松は江戸時代(1603-1868)、「X」印の家紋をもつ丹羽家によって統治された二本松藩の「城下町」でした。 現在残されたいる霞ヶ城には、実際には異なる時代の2つの砦の遺構が残されています。丘の頂上には、乱世の室町時代(1333-1573)に、武将畠山氏によって築かれた最初の城の痕跡が認められます。戦国時代(1467-1603)として知られている約150年にわたる国の混乱の後で、凄腕の伊達氏によってその城は破壊されました。ちょうど日本で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の英傑たちによって天下統一が達成されようとしていた時でした。

同じ丘のふもとには、蒲生氏、加藤氏といった伊達氏に同調する一族によって再建、統治された第二の城の遺構があります。丹羽氏は1643年から権力を引き継ぎ、この地域を1868年の明治維新まで統治しました。今年(2018年)は、幕府として知られる武家社会が近代的な帝国政府によってとって変わられた明治維新150周年です。福島の人々がこの新時代の出来事を戊辰戦争として思い起こすことを、簡単に説明しましょう。

新渡戸稲造が彼の古典的著書「武士道:日本の魂」(1900年)のなかで伝えている“花は桜木、人は武士”を彷彿させる、4月に満開を迎える数千の桜の木が、明るいピンク色の絨毯でこの田舎風景を包み込み、城壁の前のブロンズ像を感動的なほど引き立たせます。戊辰戦争という壊滅的な出来事を知らずして、このブロンズ像が表現する興味深い瞬間をどう受け止めるべきか判断するのは難しいところです。私が子供時代にしたように、数名の男の子たちが、“戦争ごっこ”しているように見えますが、その彫刻で表現された場面は、私がプラスチック製のカウボーイキャップをかぶり、ガンで撃たれてしまったときの表情よりも比べ物にならないほどストレートに事を明らかにしています。ここは、1868年の戊辰戦争における二本松の戦いがあった場所。幕府に忠誠を尽くす者たちと、明治維新政府軍が戦いました。それは7世紀以上続いた武士社会が終わりを迎え、日本における劇的な変化の到来を告げた痛ましい衝突でした。

幕末期(1820年代以降)、外国が侵攻してくる可能性に対する幕府の対応に不満が上がりはじめました。その不満は、アメリカのマシュー・ペリー提督の黒船艦隊が1853年に日本の海岸に到着し、交易のために日本に開港を要求したことなどによって大きくなりました。薩摩、長州、土佐藩 (現在の鹿児島、山口、高知県)の武士たちが討幕運動支持を呼びかけるなか、日本の天下泰平は悪化していきました。彼らは勤王派を宣伝し、短くも、激しい革命(戊辰戦争)が起こりました。

二本松とその周辺地域の武士は幕府を支持していました。城の最後の防衛線になったのは12歳から17歳の武家の子弟たちでした。しかし、新明治政府の近代的な兵力である、優れた射撃能力によって1日で大勢の者がなくなり降伏せざるをえない状況でした。自身もたった22歳であった木村銃太郎に率いられた21名の少年兵部隊のほとんどが、彼らが立ち向かった熟練兵士たちを驚かせるやり方でその幼い年齢とは思えないほどの気力、勇気、忠誠心をもって死に向かって戦いました。彼らの勇敢な死は、戊辰戦争が終わってから数十年間、この地域ではほとんど語られませんでした。藩の終焉の重荷を背負わされた若者たちにとって、それはあまりにも悲惨で、あまりにも残酷というかのようでした。1920年代になって彼らの勇敢な行動が知られるようになり、“二本松少年隊”と呼ばれるようになりました。この称号には、別の二本松部隊で戦闘に参加した合計62名の二本松の若者たちが含まれています。彼らの霊は、現在大隣寺に祀られています。

会津白虎隊
近隣の会津藩では、同じように胸が張り裂けるようなエピソードが明らかにされました。会津の若者たちで構成された4つの予備兵部隊の1つ、白虎隊には16歳から17歳までの数百人の若者たちが、東軍に対抗するために動員さました。彼らは1868年10月8日戸ノ口原の戦いで壊滅しました。わずか20名の生存者が、森を抜け、丘を越え、山の下を流れる地下水の中をくぐって、会津の拠点、若松城に合流しようとしました。涼しい深山から脱出し、飯盛山を登って、城下町の様子を見たところ、煙の中で町が荒廃しているのを見て彼らは驚愕しました。誤って城が陥落したと考え、彼らはさらに山の上を目指し、全員で自己犠牲と名誉を重んじる武士の美徳を果敢に実証する最後の行為として、短刀を自らの腹に深く突き刺し、切腹したのです。

20人のうち19人がその運命の地で亡くなりましたが、自らの意に反して飯沼貞吉が、通りかかった農民によって助けられました。飯沼の遺骨は。政府および軍における輝かしい経歴を経て数年後の1931年に亡くなった後、同志の元に戻されました。現在、20の墓石は彼らを追悼して建てられた記念碑のそばにあり、その記念碑は広く知られた忠誠心、決意と勇気の象徴となっています。その記念碑には、次の言葉が刻まれています。

幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽じとぞ思う

会津若松市のメインストリートに白虎通りと呼ばれている通りがあります。重要行事ではこの悲劇の物語がしばしば伝えられています。しかし、地元ガイドさんは、この悲惨な出来事を私に説明しながらも、葛藤しているように見えました。今日、この時代に、まだ年端もいかない"戦争の英雄"を崇めたてることが許されるのでしょうか?逆境に直面したときに見せた素晴らしい勇気を認識するよりも、戦いの悲劇を讃えているとは解釈できないでしょうか? さらに、佐幕派は、維新勤王隊に敗北しており、近代化のため迷走する使命に日本が着手するなか、変化に対して反対する者たちとしてレッテルを貼られる運命に彼らはあったのです。

長年に渡って会津っこの証しとされ深く根付いた「誇り」と「正義感」に相反する内気さがそこにはありました。「私たちのご先祖はただ義務を果たしただけなのです。なぜ悪人にされてしまったのでしょうか?」と私に語ります。しかし、私が様々な場所で目の当たりにした歴史は、成就のために武士が自らの命を捧げる武士の理想美の典型的なものでしたが、2世紀に渡って平和が実現されたことを真剣に主張するものはほとんどおりませんでした。再び新渡戸を引用しましょう、「いかなる生命の犠牲を払っても高価に過ぎることはないと考えられたものの中に、忠義があった。これは封建的な諸道徳を結んで均整のとれたアーチを形づくる要石(かなめいし)だった。」ねずみのように沈んでいく船を見捨てることは、彼らの精神的な気質と武士としての義務の根本に反するということだったのでしょう。「義は、道理に従ってためらうことなく、何をなすべきかを決断する力である。死ぬべきときは死を選び、討つべきときには討つことを選ぶ力である。」(新渡戸)